偲言葉

—叔母の旦那さんとの記憶、そして私が綴る“家族の歴史”
アパレル関係
の投稿を頑張ってしていたので、そこからは少し外れてしまいますが、
育ての親の祖母、
叔父に引き続き、
叔母の旦那さんが亡くなられました…。
もう1人の叔父や、祖母の実家には自分の死を伝えないでほしいとのことでしたが、私には叔母が伝えてくれました。
それほどの憎しみも、私には理解できます。
私も「よそ者」として苦しめられた側の人間でしたから。
兄の叔父の方には、大学

に進学したい・家業は継がないと伝えましたが、そのとき祖母の実家や弟の叔父から
「給料を下げて大学に行かすのか⁉️」
と猛反対されました。
祖母の相続争いにまで巻き込まれ、祖母の実家からも猛反対。
揉めに揉めて、「ヤンチャな高校からの進学は無理」と言われていましたが、なんとか合格し、逃げるように京都へ。
トイレもシャワーもない部屋に下宿しました。

それでも、国金からお金を借りる際に保証人になってくれたのは兄の叔父でした。
叔父の役員報酬から、大学の学費を払ってくれていました。
叔母の旦那さん、義理の叔父には、大阪から東京まで車でディズニーランドに連れて行ってもらったこともあります。
他の人にも可哀想な子達と言う事でディズニーランドは連れて行って貰いましたが「どこに行くか」ではなく、「誰と行くか」…
その意味を、あの時初めて知りました。

その娘さんたち(私にとっては従姉妹)も、毎週のようにその旦那さんに連れられて来ては、一緒にゲームをしたり話をしたり。
従姉妹の中で私だけが男でしたが、一緒にお風呂に入ったりして、毎週のように交流していました。
育ての親のような、同志のような祖父が亡くなってから、すべてが崩れました。
祖父は、親子も孫も、その伴侶にも隔たりのない人でしたが、その「家族観」も一緒に崩壊していきました。
祖母は私の師匠であり、母です。
しかし祖父の言う通り、
「お母ちゃんはな、息子が可愛い。おいちゃん(私)はお前がようやってくれてるのが嬉しい。お前は息子や。」
と、私にはそう話してくれていました。
叔母の旦那さんも、
「この家はおかしい。まともなのは君だけ。この会社を真っ当にしてくれるのは君だけ」
とまで言ってくれていました。
それらは、弟の叔父にとっても祖母の実家にとっても面白いものではありません。妹のように上手くかわすこともできず、私がかわせば妹が矢面に立たされると分かっていました。
だからこそ、父方の「横山」を名乗り続けると決めたのが14歳のときでした。
それでも祖父や、年の離れた兄妹のような兄の叔父や叔母は、ずっと力になってくれました。

祖母は経営者として、苦渋の決断をしないといけないことが多かった人です。
その苦労も分かります。
嫌な役回りをすべて引き受ける人でしたから。
祖父が亡くなって30年。
こうして見送ることになる日が来ようとは…。
私が起業したとき、祖母は
「わてらの苦労を見てきたやろ‼️ 金、金、金の人生‼️ どれほど惨めやったか‼️」
と言いました。
その言葉は、今でも身に染みています。
お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん。
「家族」がいて当たり前だと思っていたのは、それだけ私も歳を重ねたということなのでしょう。
兄妹のように育った叔父・叔母とも、自営業をしていれば家庭はねじれていき、独特な環境になる。

「好きなことをやる」――それだけでは済まないのだと、つくづく思います。
かといって、我慢だけするのも違う気がします。
昔と同じように地元に戻ろうとしている最中ですが、「戻る」ということは、氏神様に守ってもらえるだけではありません。
祖父母の財産は放棄し、亡くなられた叔母の旦那さんと同じように、私ももう関係を断って生きていこうと考えています。
「仲良く」が一番。
でも会社があれば、そうもいかなくなるのが常です。
叔母が「癌」を患っていると、出張中に知ったとき、私の中で何かが壊れました。
私の身内が亡くなろうと、インフルエンザに罹ろうと、会社と展示会のアポは絶対。
休みの日でも、平日に休みを入れたら、そこに普通に連絡が来る。
「おかしくないか?」と、東京で叔母と話をして痛感しました。
それが社長ということなのか。
いや、違う。
そう思いながらも、私は叔母に甘えてしまったのかもしれません。
叔母の喪失を恐れたのでしょう。
お恥ずかしい話ですが、泣いて泣いて、
「なぜこうして良い人ばかり早くに具合が悪くなるのか」と思いました。
泣いたのは、「家族」の心を叔母から感じ取ったからです。
だからこそ、叔母とも直接話ができていません。
喪失の痛さは、自分ごとのように感じるからです。
ただ祈ります。
どうか見送ってきた人々が、安らかに眠ってくださることを。

人の死でさえ心が動かない時代。
加齢とはいえ、どうしようもないこととはいえ、これからも「お見送り」をしていくことになるのだと思います。
私は、ブログやSNSを通して記録を残したいと思います。
それが私の「歴史」ですし、旅立った人との思い出を語れる場だからです。
たとえこの文章が誰かに理解されなくても、私は残していきます。それが“家族”と共に歩んだ、自分だけの歴史だからです。
