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🇮🇹イタリアへの憧れは、剣道着を着たあの夏から始まった。

私がイタリアという国に初めて強く心惹かれたのは、

1990年、ローマのスタディオ・オリンピコで開催された

FIFAワールドカップ イタリア大会がきっかけでした。

ユベントスのポスターを部屋に貼り、ロベルトバッジョ

に憧れ、

中学生ながらも、いつかイタリアの地を踏んでみたいと夢見ていました。

しかし、私の学生時代は家の意向もあり、小学1年生から剣道とともにありました。

高校ではぜひサッカー部にと家には内緒で入部するのですが、有段者という理由で剣道部の顧問の先生やマネージャーに熱心に勧誘され、

(毎日下校する際に校門の前に待構えておられました)

サッカー部顧問から

(剣道部の顧問から依頼されたのか)

呼び出され、

「高校生からサッカーを始めるのは遅い。剣道に戻れ」

と言われ、

泣く泣く道着に袖を通すことになりました。

それでも私は、剣道着を身にまとい、汗まみれの放課後に

夢中でTVにかじりつき、イタリア代表を応援していました。

特に1994年のアメリカW杯、あのロベルト・バッジョ率いるアズーリは、

私の中で永遠のヒーローです。

劇的な活躍を見せたバッジョ、

そして決勝でのPK失敗という明暗が分かれた運命。

あの瞬間の涙は、今でも心に焼きついています。

まるで“美しき悲劇”のようなあの大会から、

私は「イタリアの勝ち負けではなく、美学」を学んだように思います。

あれから30年──イタリアへの想いは今も変わらず。

現在、私はイタリアのファッションと文化に深く関わる仕事をしています。

ただ、それは後から芽生えた興味ではなく、

10代の頃から続く「イタリアへの憧れ」の延長線なのです。

髪を切らないのも私のようなクルクルヘアでも長い髪をなびかせながら

ユベントスのデルピエロ

ダーヴィッツ

イブラヒモビッチ

ネドヴェド

皆ロングヘアだったからかも知れません。または剣道部の厳しい短めに切れと言うお達しの反動かも知れません。

そして今のアズーリ(イタリア代表)

にも心を重ねています。

たとえば、唯一の黒人選手として注目されるモイーズ・キーン。

怪童と呼ばれたバロテッリ

時代、

「肌の黒いアズーリはいない」と差別された時代を経て、

少しずつ変わり始めたイタリアに希望を見出しています。

多くのヨーロッパがアフリカなどから帰化した選手を代表選手とし多国籍連合国となっている今、

侍スピリッツを持つ日本と同様、

アズーリは応援し続けたい存在です。

同世代としての感慨──ガットゥーゾ監督へ。

2025年、時が流れ、

かつてピッチで120分でも走り続けたガットゥーゾ

今やイタリア代表監督としてチームを率いている姿に、深い感慨を覚えます。

私と同じ1977年、彼は1978年1月生まれの同学年。

当時は年上に思っていた選手が、実は同学年だったことに

驚きと親近感を覚えると同時に、

「諦めず戦う者が辿り着ける場所」

を彼が示してくれているように感じます。

そして今も変わらず、アズーリには魂があります。

・レテギのアクロバティックなゴール

・“魔術師”トナーリの華麗なプレー

・ナポリのディ・ロレンツォやインテルのディマルコ、ミランのガッビアといった守備陣

・ブッフォンの魂を受け継ぐ、世界最高峰のGK・ドンナルンマ…

勝敗だけではない、“美と魂の融合”を見せてくれる

それが私がイタリアに憧れ続けてきた理由です。

おわりに──なぜ今、改めてイタリアを語るのか。

私はファッションの世界に生きていますが、

その根底にあるのは「美意識」と「誠実さ」です。

そしてイタリアには、芸術にも、職人にも、そしてサッカーにも

その両方が存在しています。

だからこそ私は、イタリアを通してファッションだけでなく、国そのものへの敬意と情熱。

その原点が、ファッションが初めではなく、サッカーであり、剣道着のままTVにかじりついていたあの夏だということを来年、ワールドカップも開催され、日本代表と共にイタリア代表を見守り続けてます。

33年経っても、私の中のアズーリは、色あせることなく

胸の奥で、静かに、そして熱く――

ガットゥーゾは情熱と諦めない人。

私もまた別の道で私もガットゥーゾも走り回れない歳にはなりましたが諦めない精神でいきたいと思います。

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